仏教ノート(法華経・日蓮聖人の教えを中心として)

仏教、特に法華経や日蓮聖人の教えについて管理人が学んだことをまとめていきます

日々を生きることがそのまま仏教修行であるということ。美輪明宏さんの『微笑みの首飾り』を読んで。

今回は美輪明宏さんの「微笑みの首飾り」という本について紹介します。

美輪さんは、「ヨイトマケの唄」など日本人の情感に強く強く訴える数々の名曲で知られていますが、一方で法華経の熱心な信徒としても知られています。この本は、美輪さんのこれまでの波乱万丈の人生で体験したエピソードを交えつつ、法華経の教えによって、現代社会での生きづらさを解消していくためのヒントが書かれており、仏教の入門書として適しています。

とてもわかりやすく書かれた本なので、私が解説などを付け加えるのは蛇足も甚だしいですが、私が読んで、「これは仏教として大事なことではないか」と思ったポイントに関して、初めての方にも関心を持っていただけるように要約したいと思います。

世間の価値観を信じて悩む必要はない

美輪さんは第二次世界大戦を経験されており、戦時中と敗戦後により、社会全体の価値観が正反対の方向に変わる様を目の当たりにしています。

印象的なエピソードとして、戦争中、アメリカに勝利するためという大義のもと、女学生に対して体罰を行なっていた軍人が、戦後、今度は売春の斡旋業につき、日本女性を嬉々としてアメリカ軍に売り渡している様を見て衝撃を受けた、という話が載っています。

敗戦という境目を持って、今まで絶対だと思われていた価値観が全て崩壊し、信じるべきものが何もなくなってしまったのです。

それでは、絶対に変わらない普遍的な価値観はあるのか? それが美輪さんの信仰を始める原体験になったという事だと思います。

現代に生きる我々も、一応平和な時代に暮らしてはいますが、お金があるとかないとか、誰かに必要とされているとかいないとか、そういった価値基準を絶対と思い込んで生きています。

しかし、それらは何も絶対的なものではありません。安定した暮らしを必死に手に入れても突然仕事がなくなって困窮するかもしれませんし、信じていた人に突然裏切られることもあります。我々がこうした世間の価値観にすがって生きているわけですが、そんな後生大事にしている価値など、ちょっとした事ですぐに吹き飛んでしまうものです。

では何を信じればいいか

おそらく自分の外に何か信じるものを作ろうとしてもダメなのでしょう。上記の戦時中の話もそうですが、自分の外にあるものは、必ず移ろいゆくからです。

この本では「愛」という言葉で表現されていますが、あくまでも自分自身の中にある価値に気づき、それを信じて拠り所にするしかないのだと思います。そうした時はじめて、周囲のどんな価値の変化にも動じない、確固とした心の安定がもたらされるのだと思います。

ではその自分の中にある価値とは何か。

それは、我々の存在そのものが、それに先立つ数えきれない多くの存在、つまり先祖や他の生命によって支えられて初めて存在しているということでしょう。

我々は、我々自身の存在が、他の何物にも依存せず、独立して存在しているかのようにしばしば錯覚します。しかし、我々は決してひとりでには存在するとはなく、親も含めた先祖や、我々に食物として命を提供してくれる数多くの他の生き物たちに依存して存在しています。

自分の親を尊敬できるかできないか、それは人によってまちまちかと思いますが、親も含めた先祖の中に、仮に尊敬できない人間が混ざっていたとしても、それでもこの宇宙が始まって以来の気の遠くなるような生命の営みの結果として、今の自分が存在していることは否定できません。そしてこの複雑な因果関係の中には、悪い面だけでなく、例えばお釈迦様をはじめとした優れた方々も加わっていて、要するに我々の内は常に、善と悪が入り混ざり合った状態になっています。

そのように自分を構成する複雑な因果関係の中にある、善いものの存在に気づき、そこに絶対の信頼を見出し、胸を張って生きていくこと。そして、それを自分の内面だけに留めず、自分以外に対しても、善いものを同じように見出して振舞うこと。それが何物にも動じなくなるための鍵となるのです。

どのように心の平和を得るか

しかし、我々の心は脆弱で、常に怒りを感じたり、不安を感じたり、動揺し続けています。とても「自分の中に善いものがあるからそれを信じろ」と言われても信じ続けることはできません。

そこで必要となるのが、「南無妙法蓮華経」という言葉です。

この短い言葉の中には、仏様や神様といった、この宇宙のあらゆる善いものの存在が含まれており、また、自分自身もそうした善いものの一つであるという重要な意味が込められています。

日常生活の中で、怒りや不安などの負の感情に襲われた時に、この言葉を繰り返し唱えることで、自分自身の中の優れた部分を思い出し、呼び起こして、心の中での優れた部分の占める割合を広げていくことができます。

一般に仏教の修行というと、瞑想をしたり滝行をしたりということを思い浮かべますが、美輪さんはこの本の中で、こうして日々のなんでもない営みの中で格闘しながら、善い部分を伸ばしていくことが何よりの修行であると繰り返し書かれています。

この本の題名は「微笑みの首飾り」ですが、この「微笑み」とは、自分のと他人の中の善いものに気づき、可能な限り善いものとして生きようとしていく、そうした生き様のことを指しているのではないかと思います。

以上に書いたことは、仏教、とりわけ法華経の信仰の中でエッセンスというべきものではないかと思います。この本にはそうしたエッセンスがわかりやすく詰め込まれています。以上の私の説明は拙く、表層的なものでしかありませんし、短い文章の中でだいぶ駆け足になりましたが、もしこれで関心を持たれた方は、ぜひ手にとってみてください。

日蓮聖人の御遺文(御書)の現代語訳で初心者向けだと思うもの(2019年3月版)

日蓮聖人の御遺文を読むには?

日蓮聖人に関心を持ち、その著作に触れてみたいと考えた時、その選択肢は無数にあります。

日本には伝統宗派・新興宗教問わず、数多くの日蓮聖人門下を名乗る団体が存在し、それぞれが独自に御遺文(御書とも呼ばれる事があります)を書籍として販売しているからです。

一般的に販売されているもので、初心者が最初に触れるのはどれがいいか、私見ですがまとめてみました。

前回の記事「入門者にオススメの法華経の現代語訳は?」と同様、私はこの分野に関して学術的に研究している人間などではないので、あくまで今まで私が少しばかり読んだものの中で良いと思った物についての紹介になります。了承ください。

御遺文の原文を読む困難さ

Wikipediaの記事によると、全文が残っている物に限定しても、日蓮聖人は生涯に400編以上の膨大な量の御遺文を残されています。

量もさることながら、その原文は漢文、または仮名交じり文(いわゆる古文)なので、まともに読むのは現代の我々にとってはかなりハードルが高いです。

現在、全ての御遺文の全集として販売されているものは、漢文のものはかろうじて仮名交じり文にはなってますが、それでも日頃古文とは縁遠い我々にとって読むのは困難です。

一応、全文を現代語訳にしたものもいくつか出版されてはいます。

代表的なところだと、春秋社の「日蓮聖人全集」ですが、ボリュームも多いので気軽に手に取れるものでもありません。

代表的なものから読んでみる

日蓮聖人の遺文の中でも最重要とされる五つの著作は伝統的に「五大部」と呼ばれており、まずはこれを読むことで、思想のもっとも重要な部分に触れる事ができます。

角川文庫から出ている「日蓮「立正安国論」「開目抄」 ビギナーズ 日本の思想」は、五大部の中でも、もっとも代表的な「立正安国論」と「開目抄」を平易な現代語で読む事ができます。

まずはこの辺りを読まれるのが良いかと思います。

他の五大部の現代語訳が読めるもので、一般向けと思われるのは、

これらならば、詳細な解説や用語説明も載っているのでおすすめです。

ただ、それでも各遺文の書かれた歴史的な背景や、前提となる仏教知識がないと、完全に理解するのは難しいと思います(かくいう自分もまだ全く理解できてないと思いますが)

このブログでは今後も、理解の助けになりそうな書籍を見つけ次第紹介していきたいと思います。

入門者にオススメの法華経の現代語訳は?

初めて法華経を読む人は、どの現代語訳が適しているか?

法華経には数多くの翻訳がありますが、仮に法華経に関心を抱いたばかりで、これから法華経を読んでみたいと思った人がいた場合、日本語の現代語訳の中で自分ならどれを勧めるか、という話です。

最初にお断りしておくと、日本で出版されている無数の現代語訳のうち、自分は以下の四つの訳しか読んだことがありません。

そして私はお坊様や学者などの仏教の専門家ではありません。あくまで一信徒が、専門的に学んだわけではない人間として、今まで読んだ中でどれが一番わかりやすかったか? という観点で紹介しますのでご了承ください。

『全品現代語訳 法華経』大角 修 訳

仏教に関心を持って日が浅い、あるいは宗教というもの自体も今まであまり縁がなかった、という方にはまずはこれをお勧めしたいです。

最大の理由としては、難解な宗教的な言い回しが省かれていて、わかりやすいからです。

例えば、元々の法華経の最初の章には、いきなりお釈迦様のお弟子の方々の名前が20人ほど列挙されているのですが、何の予備知識も無く読み始めた人にとっては、いきなり知らない人名をたくさん羅列されても面食らうばかりだと思います。この現代語訳は、そうした「取っつきにくい」と思わせるような部分がいくつも大胆に省かれているのが特徴です。

また、本文の途中に用語説明のための注釈やコラムがいくつも挿入されているのも特徴です。コラムには、法華経が古来より日本文化とどのように関わってきたかという事も書かれており、法華経に親しむための手がかりになるでしょう。

仏教に触れたばかりという人にお勧めするのは以上の理由からです。

逆にいうと、すでに仏教をある程度学んでいる方にとっては、内容がいくらか省かれているので物足りなく思えるかもしれません。

『現代日本語訳 法華経』正木 晃 訳

こちらも、一般向けに平易な言葉で訳されているものです。ただ、先述の『全品現代語訳 法華経』とは異なり、難解な部分の省略などはされていません。それでも、翻訳するのが難しい原文を、なるべく現代の日本人にとって不自然でないような言葉にしようという配慮が垣間見れ、比較的読みやすい訳です。

省略されていない全文が平易な言葉で読めるという事で、仏教についてすでに何かしら実践を始められている方には、こちらをお勧めしています。

『サンスクリット原典現代語訳 法華経』植木 雅俊 訳

先にあげた二つの翻訳は、漢文を日本語に訳したものであるのに対して、こちらはサンスクリット語から直接日本語にした翻訳です。

これが「どう違うんだ」と聞かれると、膨大な背景を色々と説明しないといけないので、ちょっと私の知識と筆力では、この場ですぐに書き尽くすことはできない・・・。またいつか日を改めてこのことに関しては書きたいと思います。

それでも一応すごく大まかに説明しますと、まず法華経というのは、紀元二世紀ごろにインドで成立し、そのころはサンスクリット語というインドの言語によって書かれていました。

それを四世紀頃に鳩摩羅什という中国の偉大なお坊さまが漢文に翻訳しました。

先にあげた『全品現代語訳 法華経』や『現代日本語訳 法華経』は、その鳩摩羅什の漢文を日本語にしたものです。

問題は、この鳩摩羅什というお坊さまが、漢文に訳す際に、原文にはない(とされる)記述を大胆に法華経に追加しているということです。

この追加した記述は、決して法華経の価値を貶めるものではなく、むしろ法華経の要点を強調するものだと自分としては思うのですが、何にせよ、原典にはなかった記述があるのは事実です。

サンスクリット原典現代語訳 法華経』は、サンスクリット語法華経を直接日本語に翻訳したものなので、当然ながらこの鳩摩羅什の記述はありません。

これを良しとするかどうかは、難しい問題です。

ただ、日本で昔から読まれ、今でも広く読まれているのは、鳩摩羅什訳の法華経で、様々な解説書などもそれをベースとしたものが多いので、いったん鳩摩羅什訳のものを読んでから、もし関心があればこの『サンスクリット原典現代語訳 法華経』を読むのが良いかと思います。

その他の現代語訳

岩波文庫法華経については、文庫本で読めるので手軽という利点はありますが、入門者が読むための翻訳として見た場合、少し難解なように見えます。

私が読んだことがあるのは以上ですが、これ以外にも超訳をしたもの、大阪弁に訳したもの(!)なども含め、法華経の日本語訳には様々なバリエーションがあります。

私としては、『全品現代語訳 法華経』と『現代日本語訳 法華経』が初心者には良いと思いますが、もしこれ以外にもオススメというものがあれば、ぜひ教えて頂ければ幸いです。